君主論執筆のきっかけ

メディチ家政権に起用されたいがために数ヶ月でかきあげられたといわれている。マキャベリ自身は友人「ローマ駐在大使ヴェットリ」に「国家の性格と種類、領土の獲得、保持の手段、領土喪失の理由を論じたもの」とサマリーを述べている。

「さまざまの辛苦と危険に遭いながら、すべてこの目で見て、会得した事柄なのです。」「世間の大方の著述家は、自分たちの叙述に体裁をつけようとして、勿体ぶった修辞や巧言の類、風変わりな粉飾など使いこなしますが、ここではそうした面倒な飾りを省きました。というのは、私の望みは、作品の文彩のできではなく、もっぱら内容の特異性、主題の持つ意義を喜んでいただけると思うからです」と君主論の最初に書かれているように、書記官として過ごした14年で見てきたたくさんの「君主」を透徹した視点で描いている。

君主論は出版目的ではなく、マキャベリの14年の外交生活で見てきたこと、考えたことをまとめるために書いたという見方ができる。就職のために書いた文章で、明るく口がうまいいかにもイタリア人だったマキャベリが“非道徳的行為も許される”“手段を選ばない”なんて書くだろうか?

14世紀以降ルネサンスの思想家の国家論と異なり、きわめて独創的な君主論であった。ジュリアーノ・デ・メディチに献じるつもりのこの大著は1516年37歳でマキャベリ自身が夭逝してその計画は成功しなかった。この君主論はマキャベリの死後、1532年に悲しいかな公刊され、当時は友人間で回覧されるにとどまった。

トップページ | マキャベリ年表 | 君主論の登場人物 | 発表から評価まで | 時代背景 | マキャベリ語録 | サイトマップ