政庁就職から失脚まで

1498年3月、マキャベリはローマ駐在フィレンツェ大使リカルド・ベッキに宛てて手紙を書く。手紙は、大使がサヴォナローラの情報を求めたことに応じて書かれたもの。当時まだ無職だったマキアヴェッリがなぜローマ駐在フィレンツェ大使のベッキと知り合いだったかは謎。そして同年5月28日、29歳の若さでフィレンツェ政庁の書記官(今でいうところの外務省のノンキャリア官僚)に任命された(〜1512年まで)。

書記官は大学で法学を学んだ知名の士が選ばれるのが慣例であった。だから、格別学歴を持たない29歳の彼の起用にはそれなりの理由があったのだろう。反サヴォローナ派のピエロ=ドルフィンなる人物が推挙したのでは、若いマキャベリの穏健な政治姿勢が評価された、とこれもはっきりした理由は分かっていない。ただ、情報の伝わりやすい町の中心地のことであり、彼の家柄、その行動力、思慮深い人柄などがある程度世間に知られていたに違いない。楽天家で明るく、話し上手で友達も多かった。ラテン語の語学力も定評あってのことだろう。

書記局は第一書記局と第二書記局に分かれていた。第一書記局が主に外交を、第二書記局が内政と軍事面を受け持っていた。ただしそれぞれの分掌はかならずしも明確ではなく、懸案事項の解決のために、後者が外交に当たることも珍しくなかった。マキャベリも公文書や報告書の作成といったデスクワークのほかに、しばしば国外に派遣された。

仕事が大好きで、任された仕事は上司の期待以上にこなし、仕事がなければ、自分から積極的に探す働き者だったらしい。君主論冒頭の「永年にわたって、さまざまな辛苦と危険に遭いながら、この目で会得したこと」とはこうした官僚政治家としての多忙な日々を指している。

しかし官僚マキャベリは、1512年、クーデターの折に解任された。そればかりか、反メディチ派の陰謀発覚のとばっちりを食らい、公安局の牢獄で散々な目に遭う。明らかに冤罪であったが、釈放までに2週間かかった。出獄が許された日、彼は体が動かなくなるまで暴飲暴食したという。

こうして14年間の官僚生活で、たくさんの政治家や君主を見てきた。その経験が君主論に生かされている。

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